ここに日があり得る構え、照らされる当のものを知る人の足踏みだ。

時刻の潰されたこの場で朝が怖いのは片目ずつしか眠れないからだった。夢は全て一つの街の中でのお話だ。死ぬ鳥は火を見た。追憶する。

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いつの間にか家にいた。まだ死んでいない。科学館でプラネタリウムを見る。昔見た映画のことを思い出すが、それが退屈だったことも思い出す。スクリーンには恐竜が行き交う白亜紀の大地が映し出されている気がするが、光がどうしてもはっきりと像を結ばない。知らない人の思い出を頭の中に注がれているようだった。あくびして涙が出ると、視界に泡立つ粒が光をあちこちに散らして、それを眺めていたら体が宙に浮かんだ。4D上映? VR酔い? 僕は、その感覚を肉体で感じ取る以上に言葉で知っているはずだったが名前を忘れていた。それに説明の言葉が必要なものはいつも退屈だった。しかしその心地にもいつか名前がつくのだろう。新しい名前が生まれる度に、新しい印象が生まれてしまう。とりあえず今この場に仮の名前を決めようと思って続きを思い出そうとする。昨日食べたものはカルボナーラで食べながらTwitterを見ていたら海外の人が死ぬ映像ばかり投稿するアカウントのツイートが流れてきた。友達がリツイートした猫の動画の上にあった。タイムラインに連なっている映像はiPhoneの画面中央に来ると自動で再生されて人がまた死ぬ。三回くらい殺してからアカウントをブロックして死んだ人が消えたけれど視界の中には今でも死体が転がっている。大通りの奥から鉈を持って走ってきた誰かに転がされ続けている。アカウントを消した。そういうきっかけで何度もアカウントを消しては復活させている、フォロワーなんてほとんどいないアカウントをもう二年くらい使い続けている。数週間ごとに復活させれば消えない。アイコンの写真は昔飼っていた犬だった。プラネタリウムはいつの間にか終わっていた。恐竜がいなかった。

 

 

昔書いたもの

 

 誰かが指先に引っ掛けて遊んでた透明の風船を、針でつついて穴をあけた。割る直前まで息を殺したおもちゃたちがいなくなるとみんなそれぞれの持ち場に向かって無秩序な隊列を組み始め、ふわふわ頭の上の空間が全部彼らだったことを教えてくれるので僕も頭の中を整理しないではいられなくなる。組み立て直す場所だけを決めて頭を空にして何度でもばらばらにした。屋根を鳴らして夜空に投げかける星座の中で息をする白鳥にプテラノドンは問いかけるために激しく羽ばたく。照り返す三日月と向き合えば地球の丸みが分かってとても心地いいだろうし、そうやって大きな目になるまで一四〇億年も続けたらいいよなんて言うけどそんなの僕にはぜんぜん暇じゃない。

 

 疲れることばっかりだし食べ物がないなら体にだって栄養は入ってこない。気持ちよりも速さが問題になってここで待っていてくれるらしいので、小さな真珠色の光がひとつ近づいてきてそっとぼくの上におりてきたら運ぶための錨になってしまうだろう。そのすきまをぺろんと指で掻きながら屋根を伝って道を辿ってどこかへ行きたかったのだけれど、そこにもやっぱりプラスチックや金属の遊園地があるから鉄板を敷いた坂道で、自転車と競争すると体は転がるのに綿菓子が作れるくらいに大きなおかしのお城が見えるからだんだん遠ざかりたくてやっぱりゆっくり転がっておく。また首を伸ばすように指をゆるく開いてみると、風に舞っていた旗がいくつも音もなく近づいてきて次々と通り過ぎていって、紐を引いたみたいに急にどすんと体が重くなるので目についた明るい光をひとつだけむしりとるとそこらじゅう真っ暗になる。この懐かしい重さも遠ざかっていく感触があんまり惜しくて子供のようにぼくは叫んだ。

 

 下の方が熱くなって、足の裏を空に付けていたから靴が溶けてしまった。はじめてそこに現れた扉は小さな雪の粒がいくつも連結したような扉だった。ふさふさした長い毛に覆われた十頭の馬に両脇を守られた灰色の髪が血を吸い上げて、その前にはバス型の机があって旅行鞄とその中身とおみやげのようなものが乗っかっているので面白い。トランクの上には頭の丸さのせいで落ちていないお面が乗っかっていて彼はその口をすぼめているみたいに尖らせている。馬たちは並んで二本足になってしまいそして、それがバスだから下を見ると手があることに気がついた。自分の両足首も同じ色をしていてそこにまた水が入ってしまったことをすっかり忘れていたから、心の準備なしに骨まで冷やされてしまう。両足を静かにして遠く眺めて楽しんでみる。目が慣れてくるとそれは街明かりだということに気がつき、近づいて来るほど外灯の数は減っていってそれに連れて宇宙に似た空はますます澄んで見える。雲をむやみに突き抜けてゆく先を見ていると、しんとした静けさの方が頼もしかった。ずっと深いところにも明かりがある。そのうちの一つに向かって街は動くようになって、街の後ろを包み込んでいた雲の流れが変わると海へ吹き付ける風の音がする。水面が一瞬目に入ってすぐ消えてしまうからそれは暗い色の鏡なのだと思うのだけれど、次に見たときにはその黒いのは錯覚だったかのように消えてなくなり灰色に見える月がいたるところに飾られる夜がやってくる。僕は地球に戻ってきたら無重力だったので宇宙服を着なければならないと思っていたのに、ここには宙に浮かぶ島もなくその外を波と星の海が支配していて、もちろん僕はずっと何も着ていないままでそこに立ち尽くして月を見上げている。頭が着地するとあふれた水が背骨を伝って足元へ吸い込まれていく。気持ちいい揺れには違いないけれどこのまま粘度が高くなって浜辺にくっついて取れなくなっても困るから、風と一緒に波を追って背中を向けたまま歩き出した。のっぽの木は水底まで透けて見えるような淡い緑色で点々と連なり空を目指す階段のようでさえあったが浅瀬をちょっと歩き回ると木はすぐに折れてしまって、つまり生えている場所が浅すぎただけなのだった。地面から長い首をはみ出させている草むらを踏み分けながら進むのも散歩のようだったし、乾いた砂浜に波が乗り上げたら立ち上がって見回すと誰もいないのでここは全部自分の場所だということにする。遠くで何かの仕掛けが動き続ける音がしていた。誰がどうやって動かしていたのか見当がつかない。

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 休学するから大学の学務課に書類を受け取りに行って、事務的な手続きの様々を聞いた後にカウンセリングの先生に大学の相談室を案内してもらった。相談室は透明な香りがして、カウンセリングの先生は3年前に少しだけ話したことがあった。自分の今のことを少し話した。また近いうちにもう一度会う。自分の状態が一番ひどかったころのことをほとんど覚えていない。あの時の自分がこの自分と同じなのかわからない。いつまでも現実感が持てないままいるけれど、今自分が纏っているこの身体は、ひとまず過去の自分と似通った挙動を上演している。その重たさにずっとうんざりし続けながら、けれどそれが一つ救いになっているところもある。「俳優」という身体の使用法があること、それがあまりにも広く当たり前の技術として流通していることについて少し考えてみようと思った。書きかけの戯曲の続きは、その思考の中で書かれるようになると思う。

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 理由はわからないけれど、久しぶりに何かに怒れるようになってきた気がする。あまりにいろんなことがどうでもよくなったり、あきらめてしまったりしがちだから怒れるような気がしてうれしかったのだけれど、幸か不幸か起こる対象がまだ見つかっていないし、それを自分から探しに行くほどばかでもない。怒りとか、愛情とか、それらは何かをあきらめないこととつながっていると思っていて、きっとそれを少しずつ自分に許せるようになってきているのかもしれない。それと最近夢を見なくなった。ほとんど毎日見る時期もあったからとても不思議な感覚だし、夢を見たのに忘れただけかもしれないし、この全部が夢だったら面白いなと思う。夢の中でしか会えない人たちがいた。今は舞台裏で休んでるのかな。

 

Astra

押し込めた景色は青黒く擦れたような質感が見ているだけで指先に伝わった。形の組み替えがうまくいかなくて、悲しくて涙が出る気分を象りながら繊維みたいに絡まった結晶を見ているともっと悲しくなった。真っ直ぐに歩くだけで迷子になれる人は生まれつき魂が曲がってしまう病気かもしれないと、昔のとても偉くて賢い人が話したのを聞いたことがある。初めの瞬間から心が千切れて、縫い合わせることもできなかった人は「きっとこれが自分だね、ここに自分がいたね」と懐かしく思い出せるような欠片を拾い集めるだけで長い時間を費やしてしまうから一生では時間が足りないし見えなくなったものにまた出会えると信じられない。だからそんな人たちは迷子になって街をさまよってしまう。どれだけ親しんだ場所も、たとえ自分の家ですら、それが新しい場所として上書きされてしまう。割り振られた身体で一番早く探し物をするためにはでたらめな星座を編んで、結んだ線を辿る軌道で街を歩くのが一番良いということになっている。作った星座はたとえでたらめな線の連なりであっても、さそり座にとってのさそりのようにかつて本当だった自分の姿を示す形をしていると信じられている。それがこの場の一つのおまじないだった。

幹線道路の真ん中に太陽系からは遥かに遠い星の表面を重ねながら忘れた自分の断片を探している。ここは昔から僕の遊び場だったから宙に浮かんでほんの少し高いところから落とし物がないか確かめることができる。重力の激しい入れ替えを遊ぶなら羽のない生き物だって自在に飛ぶことができるから、そのような身振りを知るものにとって、遊び場とは無秩序に散らばった重力の呼び方のことだった。ここで飛び回ったいくつかの時間の重さをまだ僕は抱えている。そのことをまだ思い出せる。縁石の側に小さな靴が片方だけ置き去りにされているのを見た。生まれたての赤ちゃんが履くための大きさだった。この足の大きさで歩きたいと思った。歩きたての不確かさを教える靴の小ささに引き寄せられて一歩ごとがバラバラな歩幅になってしまう。足は鳩や蟻やティラノサウルスとおしゃべりをして、時々歩くことを思い出している。振り解き難い拙さのまま都度の重力に流される身体は向かう先が分からないでいる。靴紐を結び直す遥かな時間を待つ人はきっと、近くのどんな星の上にもいない。

こわいゲームがだいきらい

ぶくぶくする目が排水口に流れてしまいます。石けん水を飲みすぎたことへの、ひとつの罰になっている。手足の先を少し削られてできた手ざわりはこの家の形を曲げてしまうのでお風呂場から台所まで山を登ります。冷蔵庫の牛乳で目を洗うには、そこからふたつ先の街で、長い手続きを済ませて、門番に冷蔵庫を開いてもらわないといけない。悲しさつらさを誰かに渡すための涙も今は流れないからもっと強くなろうと思います。そのように歩く。ラジオからは迷子になったひとを助ける報せが流れている。周波数を合わせると歌が聞こえる。子どもの声。決められた音程でハーモニーをつける。教えられたからそれを誰もが知っていて懐かしい。歌っている間にかつて見えていたものを思い出す。石、ありの群れ、赤い花、川を隔てて県境を跨ぐ橋、雲。この身体からちぎれた、そのいくつかの景色を不確かにつなげていく。私はあそこで笑った。あそこに花が咲いていた。かつてここに私がいた。ここはかつて歩いた道だ。思い出す方へと歩きます。行くべき道が分かってきます。そこには石があり、赤い花が咲いて、川を隔てて向こうはお風呂場、ここは台所の橋が虹と一緒にかかっている。そのように歩く。もう手足も内蔵もかつてとは違うバラバラで歩くこの景色を、いつかきっと私は思い出しながらここを歩く、そのいつかの私が今の私に向ける言葉を今ここで声に出してみるとそれは歌でした。子どもの声がついてきます。ここで笑っています。ここに花が咲いています。ここに今、目を失った私は思い出たちを束ねながらあらゆる一瞬より私でした。冷蔵庫を開けて取り出した牛乳を飲みます。Twitterのタイムラインを見ると人が銃に撃たれて死ぬ瞬間の映像が流れてくる。

あなたがそこに立って見ている、手のひら。

寒い冬の一週間を春の半分くらいの長さだと思って過ごす間に近づく春が本当の春よりまだ少し冷たいのはきっと生まれて間もないからでしょう。空気に溺れる人間を考えてみて水の中の魚は笑っています、凍った湖の中に魚が溺れていると氷の中では魚は溺れてしまいます、人間は魚と違って氷の中では溺れずに死んでしまう。溺れた魚は死んでしまいます。溺れずに死ぬことと溺れて死ぬことはずっと遠い二つの別のことです。冬が来て湖が凍ります。年が明けるとお墓参りに行く。窓口の営業時間も変わってしまう。祝日と同じです。花を買えません。窓口の横にある自動販売機でお供物のジュースを買ってくるよう言われるのでおばあちゃんに500円をもらって、お釣りを返さなくてもいいです。別の自動販売機で同じジュースを買って飲みます。お釣りを返さなくてもいいです。花を買えません。湖の周りに花はたくさんあります。それを掴まえてしまうとおもしろいです。花がそこにあるのはそこがもう春だからでした。溺れた魚は風に吹かれて湖面に落ちる花びらを見て春が来たのだと思います、思い出します。その花びらを拾います。あたたかいです。体温は上下を繰り返すのにそれを誰も季節だとは思いません。あなたは春ですか? 春は眠っています。あなたはここで拾った花をお墓に飾るのでみんな喜んでいます。そこで眠って、あなたは春を待ちます。雪が降って、ここに春を手作りします。あなたがそれを掴まえて、ここに春が来たことを思い出したらきっと笑うでしょう。

遠くで踊ったままの猫(昔、宇宙に行きたかったから)

割り箸で作った猫のお墓のことをみんな忘れていたから冗談が本当になっても仕方がない。猫又は夜に寝ない子を食べに来るけれど昼間は飼い猫のふりをして家の中にいることにみーちゃんっていう名前がついている。みーちゃんは「寝ていない子どもを食い殺す」ことになっていて僕はたまたま死ななかった誰でもいつか死ぬのに。猫という形をしている必要がよく分からなかったみーちゃんの猫のかたちは僕や僕の家族にだけ与えられていて外の人にはお化けやワニであり得たかもしれないしきっとそうだったんだろう。ねないこだ〜れだ!

大人になったら猫又に食べられなくてよくなるから祖母は寝ている間に魔女の集会に行かなきゃいけなかったし母さんは宇宙人と交信していた。本当のことはひどく子どもの世界から隠されていて僕は早く大人にならなきゃいけない。「いつかポストに魔法使いの集会への招待状が届くんだよ」と祖母が言ったのを友達に話したら「それにんちしょうじゃない?」と言われてびっくりしすぎた僕はその場でたくさんの宇宙船が口から溢れた。吐瀉物をみんな避けて教室の端の方に逃げる、それに引っ張られて僕とみんなの間に裂けてできた空間が宇宙になってその間を宇宙船が散らばっていく。だから発射された宇宙飛行士がこの僕たちと同程度に発展した文明を持つ別の宇宙人に出会って、友達になって、お土産を持ったままちゃんと僕にまで帰ってくる途方もなく小さな確率のことを考慮しながらこれから生きていこう。その異星から送られた信号電波を忘れないで読み取るためのアンテナを僕の頭の中に作ろう。そう思ったから僕はアンテナの材料を食べるようになった、パチンコ玉を鼻の穴に入れて取れなくなったり喉薬のシロップを一気飲みして病院で吐かされた。病院に宇宙は少なくて薬の香りと白い壁だけがあった。10円玉を口に入れて銅が苦い。それでまた気持ち悪い。おぇ〜。嘔吐が星間通信の方法になるなら宇宙は私の食べたもので、何も食べないと誰だって死ぬからそんなこと当たり前だった。"You are what you eat"ってちゃんと家庭科の教科書に書いていた。そうやってだんだん頭の中にアンテナを作って、いつか飛んでいった宇宙船が帰ってくるのを待つことしか僕にはできないと思った。まだ子どもだった。

みーちゃんは僕の知らない時、知らない場所で車に轢かれて死んだのだと僕は祖母から聞いた。ろくに人を食い殺すこともなくただ死んだみーちゃんのことを僕はひどくかわいそうな魂だと思った。それとも本当に僕を食べそうになって、それを避けるために自分から死んだのかも知れないと思った。死ぬ前にみーちゃんが僕を食べなかったことがずっと不思議だった。僕を食べればお互いにもっと長生きできるはずだったのにそうしなかった。僕が寝ている間に僕がみーちゃんの宇宙になっていたら物事の約束は曖昧でおかしいやつに入れ替えてあげる。捻れた人差し指が公園になった手話でみんなをくすぐってあげる。遊び方を教えてあげる。毎日好みの形に星座を組み替えて、編んだ網目が隕石を絡め取るから柔らかくなるまで茹でて今日の夕飯にしよう。隕石漁の漁獲量規制が厳しくなってコンビニのパックが5個入りから4個入りになるのをみんなで寂しがろう。冬にはマフラーも編んで、その時期ちょうど誕生日の友達にプレゼントしてあげよう。青白い星は表面温度が高いからそれにしてあげる、夜に歩いたらイルミネーションが動いてるみたいだね。そうやって祝福してあげるね。そしてその世界の子どものいない家の中でみーちゃんは一つ分の宇宙を背負ったただの飼い猫になってもう誰も殺さなくて済む。祝福してあげるね。でもそうしなかった。生きてただの猫になるんじゃなくて猫又の幽霊になったまま、いつか夜中に僕のことを食い殺すのだと思っていた。けれどみーちゃんがいなくなってから僕は猫又を見たことがない。僕がどれだけ眠らなくてもどの猫又も襲ってこない。それとも、みーちゃんは僕が不味いから口に入れてすぐ吐き出したかもしれない。そうしたらこの僕はみーちゃんが送り出した宇宙飛行士で、死んだ猫に向けて異星のお土産を持ち帰るために現世に送られたのかもしれない。みーちゃんはうまくアンテナを作るんだろうか。そのために雲や無くなっても目立たない星くらいなら食べてしまっているのかもしれない。大きな星は食べないと思う。だってみーちゃんは賢い猫で、寝ている僕のそばに子守りのようにじっと寝そべって背中を撫でていたくらいだった。それでよく眠れたからみーちゃんは僕を食べなくて済んだ、ほんとうにやさしい猫だった。あのアンテナに僕の声は届くのかな。じゃあ試しに今から一回ここで叫んでみますね。

おぇ〜。

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祖母にあげた人形に心ちゃんという名前がついて、みーちゃんが死んだ時と同じように電話口で祖母から心ちゃんが僕の妹になったことを聞いた。その日の僕を別の日の僕が祝福してあげるね。おめでとう。ほんとうにおめでとう。