新しい終わりについて
久々にここに書くことにする。前まで載せていた小説は非公開にした。
喧騒に疲れてきた気がする。元々騒がしいのは好きじゃない人間だったのを忘れていたのかもしれない。これは色々なことについて感じる。
喧騒。好きな言葉だ。声の止まないこと。混雑、錯綜、衝突。「人間味」って感じがする。それがどうしようもなく好きだ。言葉には音があるが話さないから声はない。文字のままでは声の手前の音だけが鳴る。音があちこちから聞こえると目が回って、関係があるのは目じゃなくて耳の方じゃなかったと戸惑ったりする。それはそれとして音楽をよく聴く。友人から使わなくなったAirpods proをもらって、それが初めてのノイズキャンセリング付きのいやほんだった。着けて感動していた。
波が穏やかなんじゃなくて波が消えている。海からプールに来たみたいな気分だった。
そしてイヤホンを外したとき、これまで街の喧騒として鳴っていた音たちが意図を持って積極的に聞こえ直された。足音も、布の擦れる音も、電車の走行音、風も演奏されるようだった。その感動を忘れないようにしていて、しばらくしてジョン・ケージの有名な《4分33秒》を思い出した。あぁ、彼のやりたかったのはこの感動だったんだと。
批評家の仲山ひふみさんがまさにそういうことをツイートしていた。
「減算することそれ自体を減算すること」がミニマリズムからマキシマリズムを引き出すやり方で、それがハイパーポップがやったことの本質というのが私の基本的な考えですが、シューゲイザーはMin/Maxのそうした弁証法の終わりをアイロニカルに先取りしたロマン主義(正しい意味での)かなと思います。 https://t.co/vP6okd5L5v
— 仲山ひふみ Hifumi NAKAYAMA (@sensualempire) 2025年1月11日
喧騒の最大化には静寂を経由した上でその静寂ごと離脱する必要がある。ノイズキャンセリングのキャンセル。死にかけて初めて生きる意味がわかった、みたいな。自分も底まで着かないくらいには谷を下ったことがあった。もう懐かしい。
うさぎと亀の競争を思い浮かべる。ずーっと鳴り続けている音と、静寂を経由してその後爆発的に世界に鳴る音。どっちのほうが音が大きいと感じて、どちらを聞きたくなるんだろうか。多分判断基準は時間の幅をどのくらいに設定するかという個々人の違いにあって、その違いは理屈ではなく感性とか美的感覚についての話になる。
自分は聞き手として前者が好きで、しかし話し方は後者だと思う。
小説は前者で、詩を後者と呼ぶべきかは分からない。そもそもそういう恣意的な区切り意味はないと言えばそれまでだけど。
ただ、紙面を見ると小説は圧倒的に黒い。文字の密集、隣り合っていて、余白は少なくて、通勤通学の時間帯の電車の中とか小、中学校の教室を思い出すことがある。その雑然とした、音の鳴り続ける感じが小説にあると思う。止まない音をここで聞く、もしくは私という楽器が鳴らす間、私もまたここに生きているというその実感。
ただ、その一方で静寂についても関心がある。小説の終わり方、離れ方、休み方。そういうこと。その方法論。制作論が生きる中で制作を持続させ続ける方へ向かうこと(当たり前の話)の、その裏について考えるべきだと思うようになってきた。
社会生活を破壊しない程度の小規模な創作活動(要するに趣味ですが)を誰も肯定しなさすぎなんだよな。新人賞じゃなくても、自分のために日記を書いてみたり、ギターで有名になろうとしなくても、フォロワー数十人に弾き語りを披露してみたり、そのくらいのことで喜べるようになってほしい
— ひも (@himono_grad) 2025年1月19日
ひもさんの話が自分にはすごく気持ちがわかる気がする。自分の周りでも、そうした形の活動に過剰に向き合って追い込まれた人を見ている。SNS上での承認の確保が収益化の実現とほとんど重なった今ではその必死さも正当化されうる。それでみんな声を大きくする。道を歩いていて、先に歩いていたはずの友達の背中が人ごみに紛れて見えなくなった。呼んでも道の横から呼びかける人たちの声のせいで届かず、しばらくはぐれてしまう。
ここはどこなんだろう。
自分の静けさは自分が私的に制作する他ない。既にある喧騒を止めることは抑圧であり暴力だと思う。
自分が今文章を書いているのは、過去の色々なことに対しての落とし前だったり、自分なりにそうしたことへ向き合い、組み尽くし、外部化することでいつかの自分も含めた外へ開くためにやっていると思う。けれどその外で、ずっと自分に書くことがあるんだろうかとふと考えることがあった。
生きていて、今、何か書くことだけが、そういうことを生の中で強く思考するための装置として機能している。けれど、もしその後で自分が変わって、そこに見切りがついたりしたら、その後で、自分がここに向かっていた時間や思考や技術がどうなるんだろうと、漠然と考えることがある。そしてそこでは自分の生は今よりもっと緩慢に続いていくんだろうという予感もある。その時、自分がそれでも何か書くならそれは何に向かうんだろうか。
楽しみではある。
ただそこに取り憑かれて、やっと新しい形を成した自分自身を潰すべきではない。
そういう、途切れて別の場所へ向かうときのことについて、今、自分は考えてみたいと思う。そう言えば自分は昔から飽き性で、長く続くことなんて本当に少なかったんだった。
死に方を知らない者が本当にむごい死に方をしてしまう気がする。そう思うことがあった。
例えば、江永さんのツイート。
批評の死なせかた
— 江永泉 (@nema_to_morph_a) 2025年1月21日
文芸の死なせかた
考えてみたくなった。
潰したい書き手や企業やファンダムがあるという話ではない。
文芸や批評に死ぬことができるのか、そもそも生きていたり生きているのか、
というか何をすると生きたり死んだりすることになるのか、どう終わらせたり何を新生・継承させるか等。
言葉がチグハグだったら許して欲しい。深夜に勢いで書いてあまりに眠たくて、寝落ちしそうになりながら何度か繋いだ文章だった。後で書き直すことがあるかもしれない。というかこの喧騒についての話は、いつかまとまった文章を書くつもりがある。
新しい小説がそろそろ書き終わる。まだ書きたいことがたくさんある。